第二回 「聴く」ことの力―臨床哲学試論 鷲田清一著(ちくま学芸文庫)
今回の参加者 私 お姉ちゃん シュガさん
中間テストでてんてこ舞いでした。
今回のテストで石川啄木の短歌が出ました。
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
啄木は十五の頃に、目標(小説)以外は無駄だからさぼるぜ~。
ってスタンスで授業をさぼっていたと教えてもらいました。
なんてうらやましいのでしょうか!
そんな大志を抱いて、まっぴるまから近所の公園で寝られたら・・・!
補導 待ったなしです・・・
二週間ほど前に読書会は終わっているので、すこしうろ覚えになってしまうのですが
読書会を振り返りたいと思います。
今回は鷲田清一著「『聴く』ことの力」です。
本当に難しかったので、一章、一章ゆっくりと時間をかけて何が書いてあるのかを話し合う時間が長かったように感じます。
その中で問題になった議論が「自分とは」ということです。
鷲田さんの中で自分とは
「他者の他者」
なのだそうです。
この考え方は難しい。
私は常に「あなたの趣味は?」とか「あなたの将来の夢は?」など小さいころから自分に関する質問をされて生きてきました。
だから自分は自分のことを考えながら「自分」を生きてきたわけです。
ただ生きている中で「自分」と「周囲」の大きなギャップを感じることや挫折を味わうこともあります。
そこで苦悩するのは「自分はこういう自分なんだ!」って考えているからです。
鷲田さんの「他者の他者」という言葉を解釈すると
もしお姉ちゃんの前に立つとき、私という存在(自己)は
「お姉ちゃんの他者」
になり、しゅがさんの前に立ったら
「しゅがさんの他者」
になります。「自分が考える自分」ではないのです。
そうなると私たちは「他者」がいなくては成り立たない存在です。
だからこそ人との対話が大事であり、その中でも「聴く力」が大切なのだと感じました。
だってもしだれかに、とても嫌われていたとしたら
そのだれかと会っているときの私は
「だれかにとってのいらない他者」
になってしまいます。
話は変わるのですが、前回の「人間嫌いのルール」とこのことは密接に関わってるんじゃないかという議論もありました。
だって自分が好きじゃない人間の前に立った時、自分はどうなるかっていうと
「好きじゃない人間の他者」
になってしまうわけです。それはストレスがかかること間違いないです。
だからそこで無理に自分を作るのではなく、離れて行くのも一つの選択肢なのかなとおもいます。
自分が「好きじゃない人間の他者」ってやじゃないですか?
だから「他者」は責任重大です。だって相手の自己同一性を決めるのだから。
そこで「聴く」他者は相手に「寄り添う」ホスピタリティの心が必要だと言っています。
他者に感情移入しすぎてもだめ(必死に聴きすぎて自分が燃え尽きちゃう)、突き放しすぎてもだめ。
ただ「聴いて」、
「そこにいてもいいよ」
って語りかけるような「寄り添う」形になれば理想的だと言っています。
そうすれば話を聴いてもらっているあなたは
「無条件でそこにいてもいい他者(つまり自分)」
になるのです。
すごくないですか? 無条件でそこにいてもいい自分って。
どんなに苦しくても辛くても全部いやになっても「そこにいていい」んです。
ふとそう感じられる「聴く力」の上手い相手と時間を過ごせたらいいな。
そんな「聴く力」をどうしたら発揮できるのか、この本にはそんなヒントがたくさんあります。
私もきっとこれからたくさんの人と出会っていくと思います。
私は常に「他者の他者」なんだって意識しながら「聴く力」を少しでも意識して
「そこにいていいよ」
って思ってもらえる「他者」に少しでも近づけたらなと思います。
次回はミヒャエル・エンデの「モモ」です。