第七回 「バナールな現象」 奥泉 光 著 (集英社文庫)
二月滑り込み!!!
ズサ━━━━⊂(゚Д゚⊂⌒`つ≡≡≡━━━━!!
ふぅ・・・
今回の参加者:私、お姉ちゃん、シュガさん
最近、外国文学の読書会になりつつありました。
なので今回は日本の作者でやりたい!
というわけで、その時に読んでた「小説の聖典(バイブル)」という対談集でいとうせいこうさんと話していた奥泉光さんに興味を持ちました。いつもの対談は読んで本人の著作を読んでいないパターンです。
その作品の中でも面白そうだった「バナールな現象」にしました。(理由は主人公が哲学者だというとこです!)
ただこれが全ての間違いでした・・・。
姉「ブック・〇フにもジュン〇堂にも三〇堂にもないんですけど・・・」
私「え・・・」
シュガさん「全然手に入んないんですけど・・・」
私「あ、Amaz〇nにあります!」
姉・シュガさん「めんどい・・・」
私「(´・ω・`)」
ネットのほうがめんどいという発想が前時代的だとおもいます。
結局みんなでAmaz〇nで頼みました。(買った時は436円だったのに今746円まであがってます・・・。私たちのせいです・・・。)
あらすじはこうです。文庫本の後ろの解説から引用します。
1991年1月17日、湾岸戦争が始まった。砂漠の戦場から遠く離れ東京の郊外で、妻の出産を待つ大学講師・木苺の凡庸な日常に突然、暗黒の陥穽が開く。モーセのトーラ、鴉、理不尽な暴力の予感、そして改竄される歴史。様々な謎が顕在し、現実は虚構に侵蝕されてゆく。
ニーチェを専攻する木苺先生はもうすぐオトーサン。大学教授と塾をかけもちして働いています。今日は二月の大学の試験。もうすぐオトーサンになる木苺先生は、子どもができることや、定職についていないことを気にしていて、少し不安な未来を抱いています。
そんな彼があらすじの言葉を使うと「暗黒の陥穽」に落ちていきます。
もうすぐ出産の前だというのに、つまらない喧嘩で妻に手をあげてしまった木苺先生。それでも子供のために仕事を休むわけには行かないので、仕事へと向かいます。
しかし帰って来たら妻は行方不明に。探しに外へ出かけると鴉に似ている男にストーカーをされている。
そのストーカー男を気にしていると、「第一青雲荘」という名前のアパートが目の前に現れる。その「第一青雲荘」という名前は木苺先生と妻が懐妊を知った後、自分たちの住むアパートを「1960年代に住む大学生風」というテーマで内装を変え、その時の妄想でつけた名前と同じだったのです。木苺先生はそこへ引き付けられるように入っていきます。
そこで見つけたワープロ。なぜか木苺先生はそのワープロを立ち上げ、中身を読んでしまいます。するとそこには日記が。実は木苺先生自身も妻の懐妊を知ってからその日を「オトーサン誕生記念日」とし、日記を書いていたのです。だからその日記にも興味が湧いたのでしょうか、食い入るように読んでしまいます。
その日記はまるで今までこの小説を読んできた私たちからするとあきらかに「木苺先生の日記」としか思えないものが記されていました。
しかしそれを「木苺先生の日記」と断定できない理由がありました。
なぜなら日記では「妻は八月に懐妊後、すぐに流産をする」と書かれているのです。さらに「そのまま妻と上手くいかなくなり、別居するようになる」とも書かれている。
私たちが読んできた木苺先生はもう出産前。
しかしどうしても日記に出てくる登場人物やら既視感の感じるイベントから読者は木苺先生の日記としか思えない。木苺先生もそう感じるようになります。
では何が本当にあったことで、なにが虚構なのか。それが分からなくなっていきます。そして最後のページに書かれている文章が
00 一面の砂漠である。
今まで各章は01から始まり、60まで展開されてきました。最後に00というナンバリングにこの一文で物語は終わるのです。
(。´・ω・)????????????
結局なにが起こったのか・・・。さっぱりでした。ただ私はこの「一面の砂漠」が足掛かりになるのではないかと思って、読書会ではこの「一面の砂漠」とは何かと言うところから始まりました。
木苺先生が日記を読んでいるときに「友人」と呼ばれる謎の登場人物がでてきます。この「友人」が木苺先生にこう言います。
違うね。この空虚、この不毛こそが砂漠なんだ。絶対の孤独こそが砂漠だ。無とは違うよ。無という言葉にはそれ自体に充実した内容が予感されているからね。徹底した空白。幻想の消えた場所。それが砂漠だ。かりに人に出会うとしてもね、孤独な者同士として、相手が何者であるのか理解不能な形でしか会えない、行き遭っても互いに眼を見合わせることなく通り過ぎるだけだ。眼を視たならたちまち殺し合いかねないからね。眼の恐怖に耐えかねて。心に砂漠を抱く者が抱く砂漠とはそうしたものだ。
そうするとこの物語or木苺先生は「絶対の孤独」に到達したのだと解釈することができます。では絶対の孤独とはなんでしょうか。
またこの友人はこう言います。
日記は書き換えられるものだと。
日記の書き換えが可能ということは、誤解を恐れずに言えば過去の書き換えも可能だということです。
木苺先生の物語を読んでいた私たちは、実は木苺先生が書き換えた日記を読んでいたのかもしれません。では私たちは何を真実として認識していけば良いのでしょうか。
シュガさんはこんなことを言っていました。「絶対の孤独」とは「客観がすべてフィクションになってしまう」と。
シュガさん「客観で思いつく言葉って何?」
私「普遍的とか共通認識。あとこの小説に出てきたけど歴史とか順番、道徳観とかも客観的なものだと思うかな」
シュガさん「じゃあこの日記は?」
私「みんなが読んで同じものを共有するから日記になった時には客観的なものなんじゃないかな」
シュガさん「自分で書いたはずの日記ですら客観的なものになってしまうんだよね。なぜならそれはいつでも書き換え可能だから。ということは歴史や道徳観も書き換えが可能だということを示唆してると思うのね。じゃあ何が真実なんだろうね」
この小説で行われているのは、「全てがフィクションという意識」を認識させる行為だったのではないでしょうか。
最後にこの小説は木苺先生が他者の眼を潰すという場面があります。客観的なものを排除して残ったものが自分の眼のみです。その眼からみるものは絶対の孤独。
湾岸戦争はテレビゲーム戦争と呼ばれていたそうです。私たちは現実に戦争は「見ている」はずです。しかしブラウン管を通して見ている現実はテレビゲームのようだったと。戦争がフィクションとして語られているのです。
お姉ちゃんはこう言いました。
戦争で顔のない人間として殺せる。主観以外をフィクションだという認識を突き付けたられたような気がしたと。
私たちの眼から見てる全てがフィクション・・・。
あまり納得できなかったですが、ただ私たちは他者の眼や客観的なものに囲まれて生きているのは確かです。
その他者の眼や客観性を失った時、私たちは孤独の砂漠にたどり着いて、虚構の中を一人さまようことになるのでしょうか。
現実をフィクションとして生きているとしたら、私以外フィクションなのだとしたら・・・
とりあえずこの目の前にある数学の小テストの点もフィクションですよね・・・