前準備① 「聴く」ことの力―臨床哲学試論 鷲田清一著(ちくま学芸文庫)
むずかしすぎる~
ごほん。あまりにも難しすぎて本音が先行してしまいました。
そもそもなぜこのような難しい本が課題図書になってしまったのでしょうか……
はい。わたしのせいです。すみません。
私が好きな作家さんの中に心理学者の河合隼雄さんがいます。
分かりやすく、優しい語り口。人や本の関わりから、広い世界を見させてくれる河合さんの文章が大好きです。
その河合さんが対談なさっていたのが、鷲田清一さん。
この本がとても面白く、鷲田清一さんの考えが興味深くて、ぜひ鷲田さんの本も読んでみたいと考えました。
それが大きな間違いだった・・・
いや! 鷲田さんの著書と出会えたことに感謝しています!
あまりにも難しかったので今回は前準備と題して自分の頭を少し整理したいと思います。
まずは今回の本の中にある写真について少し説明させてもらいます。
もちろん本文にも説明がなされているのですが、
鷲田清一さんの別著「まなざしの記憶」
の方に詳しく載っていたので、読書会メンバーの参考になれば。
写真は植田正治さんの写真です。植田さんは鳥取生まれで、「鳥取砂丘」をスタジオとして様々な演出写真を撮っていました。その写真は「UEDA-DHO(植田調)」と呼ばれ世界的にも高い評価を受けているそうです。そんな写真家に鷲田さんは
「ひとと物がそこにあるという事実にだけ向かった写真家」「ひとを、物を、オブジェとして距離を置いて見た、そのあたりまえの印画紙のなかに、いまなお閑な慈しみの感情が深く深く浸透してくる」
と評しています。
そして今回の課題図書である「『聴く』ことの力」を書くに当たって植田さんの写真はこんな役割を果たしていたらしいです。
長い引用になりますが、とても良い文章なので全文載せさせてください。
他人にかざされる傘、ひとを押す乳母車、子どもを乗せる肩車……。他人に手をさしのべるそういうさりげないホスピタリティが、湿りけのまったくない画面に滲みわたっている。モダンな社会の感受性、ほんとうの個人主義に立つ共同生活の感受性というのはこういうものなのかと、はたと気づいたとき、わたしは『聴く』ことの力について考えようとして、しかしひどく書きあぐねていたその長い論考のかたわらに、植田さんの作品に対位法の音楽のように登場してもらえるよう直訴していた。そしてその写真の横に文章を添える気持ちになって、ようやく続きの言葉がしぼりだせたのだった。
植田さんの砂丘での作品には、椅子と傘がよく出てくる。どうぞ掛けなさい、さあここで休み、さあここで日差しを、雨粒を避けなさい……。理由も訊かずに。そうささやく声がする。血縁、地縁とは異なった仕方でたがいにささえあうそんな生活のあり方を、ためらいを引きずりながらそれでもどうしてもたぐり寄せねばならないいまのわたしたちに深くふれてくる、ひとつのたしかな感受性を、わたしたちは、喪った。
今回の課題図書を読むヒントになったでしょうか? わたしはさらに混乱しました
たぶん読書会は来週になると思いますが、それまでに各章ごとにまとめることができたらしてみたいと思います。(時間があったら!)