しま子の読書会ブログ

読書会をするブログです。たまに私が見た本や映画の紹介もしたいです。

第三十一回「NHKこころの時代~宗教・人生~ それでも生きる 旧約聖書『コヘレトの言葉』」 小友 聡:著  (NHK出版)

 日本では宗教と言えば、少し敬遠されるイメージ。

 

「それ宗教じゃん!」

 

 って日常会話で、出てくるときにはやはり良いイメージの時ではありません。

 

 でも世界に目を向けてみると宗教を信じている人が6~8割です。ほとんどの人が信じています。

 

 私自身も無宗教なのですが、ある文章に出会い少し宗教が気になりはじめました。

 

「宗教は目の前の現実とそこでの自らのあり方を徹底的に突き詰めることを通して既存の情報や知識の価値を徹底的に見直すことから始まる。そしてそれに『囚われる』ことから自由になる精神的な空間を『学び』を通して発見し、自分の生き方をそれに沿って新しく律していく態度を内包している。(「学ぶとはどういうことか」佐々木毅)」

 

 宗教が自らを徹底的に見直し、自分を律する態度を作り出す。それって素晴らしいことです。でもこのとき、実感を持ってこの文章を読むことはできなかったのです。

 

 今回の課題図書はシュガさんがテレビを見ていて感銘を受けた「それでも生きる」というEテレの番組で、旧約聖書の「コヘレトの言葉」を扱ったムック本です。シュガさんは普段から宗教に対しての考えが深く、いろいろな宗教関係の書物に触れています。それに対して私は……。

 

私「旧約聖書って一つの書物じゃないんですか? コヘレトの言葉とかなんで全然知らない人の言葉が入っているんですか?」

 

姉「(´_ゝ`)」

 

シュガさん「ま、まあ今回はコヘレトの言葉に一点集中しながら、楽しんでやっていこうよ!」

 

 

 

 「コヘレトの言葉」は旧約聖書の中の知恵文学の一つです。知恵文学はイスラエルの民として正しく生きるための教訓や人生訓が書かれた書をまとめたものです。

 

私「ようするに良くいきるための指針ですよね」

 

シュガさん「でもほかの知恵文学と『コヘレトの言葉』が違うのは応報思想が少ないことなんだよね。『箴言』っていう知恵文学ではこの応報思想が語られていて、良いことをやったら良いことが起こって、悪いことをやったら悪いことが起こる」

 

私「それならすんなり受け止められますよね。良いことをしようと思います。でも『コヘレトの言葉』はめちゃくちゃわかりにくいですよね」

 

 私が分かりにくいと思ったのは、この本の冒頭にも引用されている「コヘレトの言葉」です。

 

 空(くう)の空

 空の空、一切は空である。

 (1章2節)

 

 

私「自分のイメージしていた宗教の教えとは違います」

 

姉「虚無的だよね。なにか道が示されていない感じがする」

 

シュガさん「でも全部虚無って言い切ることで、自分自身で大切にするものを見つけることが大事なんだよなって改めて実感できたかな。コヘレトの書は、虚無だからこそ今を大事にするべきだって言葉がたくさん散りばめられていて好きだよ」

 

 聖書は終末思想が主だったものであり、未来が既知のものとして置かれています。しかし未来が既知であれば、今というときは空疎になってしまう、と本書では指摘しています。人間はこの現世で何をしても意味がないと思い、無気力になる、と。

 

 それに対して「コヘレトの言葉」は終末思想を否定します。コヘレトは「すべては空」だと言いながらも、いつ来るかわからない終末に思い馳せるよりも、目の前にある「今」を生きよという言葉を綴ります。

 

 そこで、私は喜びをたたえる。

 太陽の下では食べ、飲み、楽しむことよりほかに

   人に幸せはない。

 これは、太陽の下で神が与える人生の日々の労苦に

   伴うものである。

 (8章15節)

 

 

姉「現世で大切なものを見つけろっていう言葉に私は聞こえたかな。生きる目的を今の中から自分で認識していくしかない」

 

私「未知な未来だからこそ、応報思想が通用しない。良いことをやっても良いことがくるとは限らない。だけれども、自分の認識を変えると人生の意味が見えてくるのかもしれませんね」

 

 人間とは生の意味への問いを発すべきものではなくて、むしろ逆に人間自身が問いかけられているものであって、みずから答えなければならぬ。

フランクル著作集「識られざる神」佐野利勝・木村敏訳、みすず書房、一九八一年)

 

 

 学校生活の中で答えを与えられることや、応報思想に慣れてしまった私は、何事も自分の外に原因を求めます。でもその考え方だと不条理には対抗できない。引用されているフランクルの文章で、著者の小友さんは不条理の中から運命に対する「構え」を変えることの重要性をときます。

 

 不条理の意味は、決して明らかにされません。けれども、不条理の意味を答えるのは神ではなく、この「私」です。そこで思考を停止するのではなく、むしろ、自ら答えを出すために向かって生きていかねばならない。(70P)

 

シュガさん「宗教ってけっこう他力本願が多いのね。でも『コヘレトの言葉』はいうなれば自力本願っていう考え方だと思う。だからこそ勇気がもらえる言葉が多くて私は好きだったな」

 

私「シモーヌ・ヴェイユの時もそうだったんですけど、実践するのはやっぱり難しいような気もします。彼女みたいに強い人間ならこの考え方を実践できるし、憧れもします。でも、どっかで他に原因を求めて、自分で物語を作らないと精神が持たない気もするんです」

 

姉「ポイントはまず虚無的な所じゃないかな。虚無だからこそ悪いことにも良いことにもそこまでの意味はない。でもその時を生きることを楽しむ思考を持つ生き方を『コヘレトの言葉』は提供してくれている」

 

 見よ、私が幸せと見るのは、神から与えられた短い人生の日々、心地よくたべて飲み、また太陽の下でなされるすべての労苦に幸せを見いだすことである。

 (5章17節)

 

 

姉「大切なものはこの不条理の中で自分が見つけていけるんだって思えるんじゃないかな」

 

私「相手がいない不条理が起きた時に、いかに自分が納得できる答えをだせるかを常に考えていかなければいけないですね」

 

シュガさん「だからこそ『コヘレトの言葉』って宗教をやっていない人にも響く言葉じゃないかな。でも宗教的に考えると、コヘレトっていう人が不条理に対して真剣に向き合ってひとつの答えを紡いだことが、私たちを安心させる気もするんだよね」

 

 そのシュガさんの言葉を聞いたときに、なんとなく実感を持てなかった「学ぶことはなにか」の一文がすっと入ってきました。

 

 宗教は一つの答えです。でもその言葉は単純ではありません。だからこそ自分が考え、その言葉と対峙する。でもその言葉を紡いだ人に対する信頼感があるから、自由に考えて歩んでいける。だから自分を律しながらも学びを続けていけるのではないかな、と思いました。

 

 読書会は自分がしていたほかの読書の言葉もたまに救い出してくれるのが魅力的です。

 

 だからといって実践できるわけじゃないんですけどね……