しま子の読書会ブログ

読書会をするブログです。たまに私が見た本や映画の紹介もしたいです。

第四回「フォークナー短編集」 フォークナー 著 龍口直太朗 訳 (新潮文庫)

今回の参加者:私、お姉ちゃん、シュガさん

 

 

スタインベックとても面白かったので、続けてアメリカ文学やりましょう! 今度はフォークナーで!」

 

 

 

 そう意気揚々と言っていた一か月前の私をはったおしたい・・・。

 

 

 

 それほどフォークナーは私にあいませんでした。まったく文章が入ってこない。

 自分なりに原因を考えてみたのですが、それぞれの短編や登場人物の舞台背景があまりにも濃密だったからではないかと思います。

 あまりにも情報量が多すぎて、なかなか短編そのものを楽しめない。

 だからきっと私の力不足であり、未熟な自分を反省しています。

 

 

 そう思ってため息をついていると、お姉ちゃんが言いました。

 

 

「あんたにあわないってことは、きっとシュガさんは好きなんだろうね」

 

 

 またまたー。こないだ差別的表現が嫌いだって言ってたんですよ? フォークナーはスタインベックよりよっぽどそういう表現に切り込んでた作品でした。

 そんな話をしながら、待ち合わせ場所で待っているとシュガさんがやってきて第一声

 

 

シュガさん「今回の短編は面白かったね」

 

私「(´・ω・`)」

 

 

 この人とは一生感性があわないと思いました。(だから面白いんですけどね)

 

 

 シュガさんはフォークナーの作品から想像の力を感じるそうです。

 物語や人、すべてのものが緻密に構成されていて一つの世界観を構築している。

 その世界に入り込めるのが魅力的らしいです。(私はその世界にまったく入れなかったわけですね)

 特にシュガさんは「赤い葉」の世界観が好きだったそうです。白人・黒人・インディアン、それぞれがそれぞれの共同体を作り生きている。その世界で繰り広げられる物語が好きなんだそうです。

 

 そしてシュガさんの一番のお気に入りは「バーベナの匂い」という短編です。

 

 サートリス大佐がベン・レッドモンドに殺されたとき、息子のベイガードがどのような態度をとったか―それがテーマになっている。南部の従来のモラルからいえば、父親が殺されれば、子どもは親の仇を打つのが正義だとされていた。「眼に眼を、歯には歯を」のモラルである。だが二十四歳の大学生ベイアードはちがった考え方をしていた。(中略)周囲の人間は、ただ一人を除いて、みんなベイアードにピストルを握ることを期待していた。

(瀧口直太朗の解説から引用)

 

 しかしベイガードは丸腰でベン・レッドモンドのもとを訪れ、結局なにもせずに帰りました。周囲の人々は、そんなベイガードの行動を卑怯者だと罵ります。父親が殺されたら殺すのが当たり前の世界、殺人と言うのが当たり前の世界で、その選択肢を選ばない。

 

「男の人にとってこの世でいちばんいいことは、その人がなにかを、そうね、女のひとがいいわね、しっかり強く、根かぎり愛して、若いうちに死ぬことじゃないのかしらってね。」

 

 父の若い妻ドルシーラにはこのようなことを言われて、愛の告白を受けたのにも関わらず、その期待には答えなかったベイガード。

 シュガさんはこの行動を「敗者の美学」と称していました。他者に言われるままではなく、自分の思い通りに行動する勇気。そして殺人が当たり前に通っていた価値観への素晴らしい疑問の投げ方ではないかと。非暴力で既存の価値観に一石を投じる作品だと。私はガンジーを頭に思い浮かべました。

ガンジーについては「ガンジーでも助走をつけて殴るレベル」のフレーズしかしりませんが)

 

 

 

そういえばこの間「ガンジーでも助走をつけて殴るレベル」の検索をしていたら、似たようなフレーズを住職さんが募集している企画があって、その優秀賞が発表されてて面白かったです。

私は

「杉浦千畝にパスポート燃やされるレベル」

与謝野晶子も君死にたまへって言うレベル」

がお気に入りでした。

 

 

閑話休題

 

 

 また今回の短編は「差別される対象」が多く描かれている作品でした。

 ただ「差別」という言葉を簡単に口にするのがはばかれるような作品群でした。そうおもうようなきっかけになったのがお姉ちゃんの発言です。

 

 お姉ちゃんが言っていたのが、私たちは「差別」という価値観を無意識に使ってしまうということです。

 この作品の登場人物は「差別」を意識的にしているわけではなく、「黒人だからこういう扱いで良い」「インディアンはこういうものだ」そういう価値観が当たり前になっている世界です。その価値観は現実にあって、今ももちろんあります。

 その意識が生まれる根底に「全体でくくってしまう」というのが考えられます。

 白人、黒人、インディアン・・・そういう風に漠然とくくってしまう。

 この小説はそんな意識を壊してくれる作品だとお姉ちゃんは言います。

 全体でくくってしまう意識が、小説のなかで個人、個人の物語になる。フォークナーの作品での登場人物は私たちと変わらない個人として描かれている。そうすると私たちは個人の問題だと気付くのです。

 全体で物事を語ることが悪いことではないと思うのですが、実は個人の問題なんだ、という念頭を忘れてはいけない。

 そんな話を聞いて私は思いました。

 

私「つまり・・・」

 

お姉ちゃん「うん」

 

私「日本人の私たちの差別意識に訴えるだけで傑作なんだね!」

 

お姉ちゃん「(;´・ω・)」シュガさん「(´_ゝ`)」

 

私「(´・ω・`)」

 

 なんか違うみたいです。

 

次回は「カフカの城」になりそうです。

シュガさん発案でしたがお姉ちゃんが嫌そうな顔をしていたのが印象的でした。

いわく、同じことの繰り返しばかりで読むのが疲れると。

 

 

・・・きっと私も嫌いなんだろうなぁ。。。

 

フォークナー短編集 (新潮文庫)

フォークナー短編集 (新潮文庫)