第三回 「スタインベック短編集」 ジョン・スタインベック 著 大久保康雄 訳(新潮社)
今回の参加者:私、お姉ちゃん、シュガさん
だいぶお久しぶりです。生きるのってとても忙しくて、いつの間にかもう今年が終わりそうです。
今回は色々あってお姉ちゃんが選んだ「スタインベック短編集」が読書会の課題図書になりました。
私にとってこの作品は久しぶりに心から「面白い」と思える小説でした! 勧めてくれたお姉ちゃんに感謝しながら、ルンルン気分で読書会会場(ガ〇ト)に向かうとシュガさんが第一声
「くそ読みにくくてつかれた」
「工工工エエェェ(゚Д゚)ェェエエ工工工」
唖然とした私にシュガさんに畳みかけるように言います。
いわく・・・
・古臭い、土臭くていやだ
・展開が読める作品群だ
・差別的表現がきつい
などなど・・・。
「土臭かったら前にやった「遠い声遠い部屋(作:トルーマン・カポーティ)」のほうが土臭くありませんでした?」
「あれは主人公が若いから許される」
「(;´゚д゚`)エエー」
私は飛び出しそうになる右こぶしを抑えながら、にこやかにこの小説の面白さを話しました。
私はこの短編集には人間の「外面」と「内面」のずれが興味深く書かれていると思います。人間って深いところできっと分かりあえない、そういう姿を面白く描かれている気がするのです。
特に面白かったのは『敗北』と『怠惰』。「天使の牧場」という名前の村で起こる話を書いた二つの短編です。
『敗北』は、外面を取り繕っていた男とその妻が、あまりにも美人すぎる「娘」を産んでしまったことで、その外面がぼろぼろと崩れてしまっていく話と読みました。
本当はお金持ちでも、頭が良いわけでもないのに、そのような振る舞いをすることで、村の人たちからは「金持ちで頭の良い男」だと思われていたエドワード。そう思われていることで彼は幸せでした。
その男にありえないくらい美人の娘がうまれます。彼の人生の中心は「娘」になり、あまりにもその娘を過保護に育てるあまり、大きなミスを犯して、村の人にその正体がばれてしまいます。
外面が崩れ去った男は精神がぼろぼろになりますが、妻にありのままの「内面」を包まれることで生を吹き返し、天使の牧場を出て新しい人生を歩もうとします。
わたしはこの「娘」を「外面」ばかりを取り繕うエドワードに与えた神様からの「忠告」なのではないかと思いました。
そして『怠惰』。仕事でボロボロになったジュニアスが「天使の牧場」に療養をしにきました。そして社会にがんじがらめにされていた今までの生活から「外面」をまったく気にせずありのままに生きることを選びます。子どもを持つことになりますが、だからといって必死に働きもせず、家はボロボロ、髪形はボサボサ、服装もボロボロ、最低限の生活をしながら悠々自適に本を読み、物語の話を子どもにして、楽しんで生きていました。
そのことが子どものロビーも全然いやではなく、むしろ楽しく暮らしていました。
そんなロビーの生活が「天使の牧場」の村の人たちからすると不憫でならない。
「ああ、可哀想に。そんなぼろい服を着て」
あまりにもひどいジュニアスの生活を見て、ジュニアスを社会からしめ出していた村の人たちも、子どものロビーには罪がない、可哀想だ、なんて思うんですね。
だからロビーが小学校に入る学年になったら世話をしてやろう、なんて勝手なことを思うんです。
ある日、ロビーが小学校で授業参観を受けます。その時に町の人たちから新しい服をもらうんですね。「あなたはいつもボロボロの服を着てるから」って言って。
ロビーは今まで楽しく子どもたちと遊んで過ごしていたのに、この時に羞恥で顔を真っ赤にします。
あくる日、ジュニアスはボサボサだった髪と髭を切って、ロビーを連れ立ってバス停に現れます。
そこでのジュニアスの言葉が悠々自適で楽しそうだったジュニアスとロビーの生活をボロボロにします。
「わたしはこの子に害をあたえているとは気が付かなかったんです。そんなことは考えてもみませんでした。もっと早く、そのことに気がつかなければいけなかったんです。ご承知のように貧乏暮らしのなかで子供を育てるべきじゃないんです。あなただって、そう思うでしょう? 村の人たちが私たちのことをどう言っているか、わたしはまるで知らなったんです」
憧れて読んでました。ジュニアスとロビーの二人の牧場生活。目を輝かせながら楽しく読んでいました。ジュニアスの話は面白いし、ロビーの考える遊びも楽しそうだった。そんな憧れが一気に崩されていく感覚でした。
けれどこれが現実で、私たちは「内面」だけでは生きていけないのです。「外面」を使って社会にあわせていく必要もあるのです。
私たちは外面と内面を駆使して生きて行きます。その中で社会と向き合うときに絶対に内面を分かりあえないのです。だからちょっとした外面でコーティングします。ただ内面も少し見せないと信用されません。そんな危ういバランスのなかで生きているのかなとも思いました。
『蛇』という作品も面白かったです。(シュガさんは抽象的すぎてわけわからんと言ってましたが・・・)
『蛇』は自分の部屋でネコをガスで殺したり、ヒトデの精子と卵子という生命の営みすら実験に使ったりする男の話です。
その男の前に突然女が現れます。
「ガラガラヘビを一つ売ってください」
実験をジャマされた男はその申し出の意味不明さに苛立ちます。売ることを了承する男ですが
「持って帰るつもりはありません。ここへ預けておきたいんです――ただ、自分のものにしたいんです」
と言われ、そのわけの分からなさにさらにイライラします。
この後も女の奇行が続いて、男はイライラし続けます。
最後に女は
「あれの毒をとらないでください。毒をもたせておきたいんです。では、さよなら」
と言って出て行きます。
そして男はこの女がもどってくるの待ちましたが、二度とその場にはこないのでした。
私はこの話は、実験ばかり続ける男の「内面」をあばく女の「実験」だったのではないかと思いました。彼が女の奇行にイライラして純粋な苛立ちを彼女にぶつける姿は、外面も何もあったものではありません。「蛇」って言う作品が意味を分からないって言っている姿のシュガさんと重なってクスッと笑ってしまいます。作者の私たちの内面をあばく作品なのかもしれませんね。
私は色々と想像が膨らんで楽しい作品でした。
私の熱い思いが届いたのか、シュガさんが最後にいいました。
シュガさん「うん。たしかに面白いね」
私「! でしょでしょ!」
シュガさん「いや、あなたの考え方だけね。作品はくそ」
私「(; ・`ω・´)ナン…ダト!?」
シュガさん「あ、けど『朝めし』って作品は面白かったよ」
私「(あ、それ私が唯一あまり面白くなかったやつだ・・・)」
こういう人のズレがやっぱり面白いのかもしれませんね。
次回はたぶんフォークナー短編集です。