しま子の読書会ブログ

読書会をするブログです。たまに私が見た本や映画の紹介もしたいです。

第十三回 「差別語からはいる言語学入門」 田中克彦 著 (ちくま学芸文庫)

今回の参加者:私、お姉ちゃん、シュガさん

 

 

 

 普段しゃべっていて、あんまり言葉について考えることってありません。

 

 例えばいま使った「普段」という言葉。実はもともと漢字では「不断」と書いていて「いつまでも続く意味」が転じて「いつもの状態があること」になったそうです。

 「不断」という漢字は知っていましたが、実は「普段」が当て字だったというのです。

 開幕に適当にぶちこんだ言葉にこんな深い意味があるなんて。私に与えた衝撃は計り知れません。

 

 

 

 

 

 

 このように、なんとなしに私は言葉を使っていて、言葉についてそんなに深く考える機会は少ないです。

 

 しかしそんな言葉について考える機会もあります。それは「差別語」についてです。

 なぜこの言葉を使うと自分が、相手が傷つくのか。またテレビやニュースなどでたびたび話題になるのが「差別語」の問題です。その時に差別を受ける側の人と共に言葉の意味を考えたりします。ただ禁止されるものほど興味がある、という単純な好奇心もあります。

 

 「差別語」は言葉を考えるきっかけを与えてくれます。

 

 「差別語からはいる言語学入門」という入り口は、とても開かれた入り口であり、言葉と向き合うきっかけを与えてくれるものでした。

 

 文章中で筆者はこう言います

 

 言語は話す人すべてのもののはずだが、言語エリート(※1)が、かれらの趣味によって決めた規則をおしいただき、学校を通じて配給されえる、そのしきたりにひたすら従わざるをえないことになる。

(中略)

 こういう事情で考えるならば、社会的に肉体的に差別されている人たちが、自分に対して、これこれのことばを使ってほしくない、使わせないと声をあげたできごとは、人間の言語史の上ではほとんど考えられなかっためずらしいできごとだったのである。」

 

※1作者は作家、評論家、文化人など、ことばだけで食べている人間を「言語エリート」と呼んでいます

 

 言語エリートたちに言葉を規定されて、言葉の意味についてはそれを鵜呑みするだけの私達。しかし差別されている人たちが言語エリートの使う言葉に対して「これっておかしい!」と主張しました。それは民衆たちの中で「もっとわかりやすい、いい日本語を作っていこうよ!」という意図があり、言語の可能性を感じさせてくれるものです。

 

 ただ残念なことにこのサベツ語を糾弾する運動は作者のそういう期待から離れていきます。

 

 ①サベツ語糾弾運動は、その結果からみると、言語レベルでとらえるかぎり民衆的というよりはむしろ反民衆的運動であり、

 ②わかりやすい、いい日本語を作って行こうという国民運動にもなれていない。

 ③サベツ文字である漢字(※2)の多用という点からみると、エリート的、つまりエリートまがいの運動にとどまっている。

 

 ※2筆者は「漢字」というイミ文字は「オト文字(日本だとひらがな)」に対して、何万語の知識が必要で、漢字を知っている人間が知らない人との差をつけることでサベツに繋がると考えています。

 

 と筆者はいいます。糾弾運動そのものには賛成でも、やり方には賛同できないという立ち位置でしょうか。

 

 お姉ちゃんは「差別語=悪」で思考停止せずに、本質を探ることが大事なんじゃないかと言っていました。

 

 

姉「差別語ってそりゃない方がいいに決まっているんだけど、『差別語』の存在があるからこそ比較して良い言葉ができるんじゃない? だから『差別』と感じたことばに『なぜ差別と感じるのか』という理由もしっかりと考えて糾弾しないとね」

 

私「脊髄反射的に『差別語』だって叫ぶのは危ないってこと?」

 

姉「そうそう。その言葉の「善悪」の理由づけがないとそれこそエリートと一緒になっちゃう。この言葉は使っちゃいけません、だけだとね」

 

 

 差別語を糾弾する側というのは、差別を受けているので、もちろん声をあげるべきだと思います。そして新しく使う言葉を考える時には「なぜ今までの言葉が差別語であるのか」という点をしっかりと明らかにしていかなければ多くの人々の納得を得ることができないのです。

 

 ネットを見ると、新しい言葉に対して「なんでわざわざこんな言葉を使うのか」と文句を言っている人をたまに見ます。

 その人たちは被差別者の気持ちが分からないので当たり前です。しかしメディアは「差別語」を腫れ物を扱うようにして、急に新しい言葉を使いはじめます。

 今までの「差別語」の本質を理解せずにあたらしい「ことば」がひろく流布してしまう。多くの人々は違和感しか残らず、「被差別」の人に無理解になってしまう。そういう現状は危険なのではないかと思いました。

 筆者も「カタテオチ」という言葉を例に、その危険性を示唆しています。

 

 「カタテオチ」はサベツ語糾弾運動の中で利用されるのが多かった語である。それがサベツ語だと指摘した人はたぶん、カタテが落ちると解釈して、その解釈をおしつけ、ひろめた結果、テオチにカタがついたという、よりあらまほしき解釈を暴力的に押しのけてしまったのだろう。その結果はなかなか由々しきものだ。

 

 しかし本質を濁す、新しいことばも大事なのではないかとシュガさんは言っていました。

 

シュガ「例えばホスピスということばがあるじゃない。日本語で言えば『死を看取る場所』だよね。だけど『じゃあ、あなたの死を看取る場所に行こうね』っていわれたら少し嫌じゃない? 新しいことばってそういう曖昧なニュアンスで感情をごまかしてくれる時もあると思うのよ」

 

 私たちはいま新しい言葉がとめどなく流れてくる中にいます。急に現れる新しい言葉に対して、いまいち意味の本質が分からないままその言葉を聞き流して、考えないようにしているところがあると思うのです。

 そのことがシュガさんの言う通り良い面になるのかもしれません。

 

 ただ言葉の本質を理解することは、色んな人の言葉の受け取り方を学ぶことでもあると思います。それほど大事なことなのに、そんなことを忘れて、なんとなく言葉を使ってしまう。言葉は使いやすくて便利な道具なのでしょうがない部分もあると思います。

 ただ「差別語」は誰かがその言葉に「違和感」をおぼえている。その時はしっかりと言葉を考えなければいけないのかもしれません。

 

 「差別語」から入って(私たちの会話は言語学というとあまりに幼稚かもしれませんが)言葉について楽しんで語ることができました。

 

 最後にお姉ちゃんが言っていたことが印象的でした。

 

姉「けどさ。この作者ゴミ置き場で辞書拾ってるエピソードあるじゃん。この人に「差別語」のモラルを語られるのも面白いよね」

 

私「(´・ω・`)」