しま子の読書会ブログ

読書会をするブログです。たまに私が見た本や映画の紹介もしたいです。

第十一回 「地図と領土」 ミシェル・ウェルベック 著 野崎 歓 訳 (ちくま文庫)

今回の参加者:私、お姉ちゃん、シュガさん


 「ハヤカワ文庫の本裏のあらすじが壮大なネタバレになっていた!(怒)」

 

 なんて話を良く聞きます。

 

 その洗礼を初めて受けたような気がしています。もしこれから読む人は「帯」も「あらすじ」も見ずに読むことをお勧めしたいと思います。

 

 これより以下、私の体験に基づき「地図と領土」のネタバレが入るので、読もうと思っている方は気を付けて下さい。

 

 

 

 

 

 今回の「ちくま文庫」さんの帯に「ウェルベック、惨殺!?」と書かれていました。

 

 なるほど。今回の課題図書「地図と領土」の作者であるはずのミシェル・ウェルベック自身が小説の中に登場し、自分自身を物語の中で惨殺する。

 

 物語の中で自分自身を惨殺することに、どんな意味があるのだろうか・・・。

 そんなことを考えながら本裏のあらすじを読みました。

 

孤独な天才芸術家ジェドは、個展のカタログに原稿を頼もうと、有名作家ミシェル・ウェルベックに連絡を取る。世評に違わぬ世捨て人ぶりを示す作家にジェドは仄かな友情を覚え、肖像画を進呈するが、その数カ月跡、作家は惨殺死体で見つかった――。

 

 うん。私の帯から得たインスピレーションは間違っていない。作家が死んでからがこの物語のテーマなのだ。そう思い本をめくります。

 

 

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ぜんぜん死なない!

 

 

 

 かれこれ250ページ。もう半分を折り返してます。 死ぬ気配がまったくない! なんか普通に主人公のジェドさんとミシェル・ウェルベックが打ち解けていってる! 本当に死ぬのかしら! 

そんないらん心配をしながらページ数はあっという間に300/450P。

 

 

 

ウェルベックさん! 

突然惨殺死体になってる!

 

 

 もうパニックです。この300ページが裏のあらすじの二行にまとめられているショックたるや・・・。これは帯とあらすじを見て読むのと、何も知らずに読むのでは感じ方がまったく違うのではないでしょうか。

 

 

 

 それはさておき物語についてです。

 

 

 

 シュガさんいわく、この物語の面白さは「現代のフランスにあらわれた主人公である芸術家のジェド・マルタン。その現代の芸術家の生い立ちを同時代的に体感できるところではないか。」と言っていました。

 

 確かにこの物語に出てくる登場人物は、実際にいまの世界やフランスで活躍している人が多く登場します。物語の冒頭では現代芸術家の筆頭であるジェフ・クーンズとダミアン・ハーストの絵画を描くことに苦心するジェドの姿が書かれ、彼が描いた「スティーブ・ジョブズ」や「ビル・ゲイツ」の絵画は高く取引されます。

 

余談ですがこないだ石川県の二十一世紀美術館に行った時に実際にダミアンの作品を見て唖然としました。「死骸も美術になる」というコンセプトで蝶を美術館の二階でふ化させ、死んだら一階に落ち、一面に広がった蝶の死骸が芸術だと。うひゃあ。その時に「ジェドが描くのに苦心してたダミアン・ハーストはこの人か」というフィクションと現実が重なる楽しさを感じました。

 

 そこで疑問に思ったのが、なぜ現実をフィクションに落とし込むのか、という点です。

 

 フィクションを現実っぽくする行為は良くあります。現実っぽくなることで、フィクションに共感し、好感を感じるようになります。登場人物を身近に感じることができます。

 

 その逆で現実をフィクションに閉じ込める。訳者のあとがきでは「作者ミシェル・ウエルベックは自分自身を物語に登場させ、世間に流通しているイメージどおりの人物像を演じさせた」と書かれています。要するに現実に近いものとして、小説に登場させているわけです。それは他の登場人物にもいえます。その意図は?

 

 お姉ちゃんは「現実をフィクションにすることで、視点が俯瞰的になり、捉え方が変わるのではないか」と言いました。

 

 一人の人間が現代の芸術に対して疑問を呈することは誰でもできます。それを小説と言う形に変えることで、俯瞰して物事を見つめ、様々な視点から問題に対して考えることができる。

 

 シュガさんは「小説をもっと切実なものに変えるため」だと言います。

 どういうことでしょうか。

 

 村上春樹の小説などでは、具体的な商品名や現実の固有名詞が多いといいます。その効果は「現実の言葉」を小説の中の「文字」に落とし込む。そうすることで物語と現実を同化すし切実さが増すのだと言ってました。

 

 ぶっちゃけ良く分からなかったです

 

 私は今回の小説で一番ぐっときたのがこの言葉です。

 

いまの時代は何もかもが市場での成功によって正当化され、認められて、それがあらゆる理論にとって代わるというところまで来ている。

 

 私の芸術家のイメージは「天才」で「孤独」で「感覚的にすごいと感じるもの」だと勝手に考えていました。例えばサマセット・モームの「月と六ペンス」に登場するストリックランド。性に奔放で、自由で、けど描く絵はすごいと感じてしまう。これが私の芸術家です。

 しかし芸術家を辞書でひくと「芸術活動が社会的に広く認知された状態」とあります。今の社会は市場の成功によって、要するに資本的にどれくらいの値段がつくかによって決まります。要するに芸術を決めるのは私達一般庶民ではなく、金持ちが「これ、いいね!」と言ったら芸術になるのです。

 

 きっと多分に今までも芸術はそういうものだったのかもしれません。それでも何か少し寂しい感じがします。

 

 そんな現代の芸術活動をしているミシェル・ウェルベックが自分の作品で死ぬわけです。それは市場の中でのみ芸術になる現代の仕組みを嫌った作者自身の苦肉の策だったのではないでしょうか。

 

 市場で芸術が評価される「現実」を小説というフィクションに落とし込み、そこでのミシェル・ウェルベックは惨殺された。「市場で成功をおさめ芸術作品を描いた」ミシェル・ウェルベックはもう死んでるのだから、怖いものは何もないのではないでしょうか。だから世間に対しての風評を気にせず吹っ切れた作品を生み出すことができるのではないでしょうか。